空の秋極まりしかばみみうらを星の触れ合ふ音ぞ過ぎける 塘 健 |
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★重陽の節句とは? ★菊花のちぎり(雨月物語) |
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9月9日は重陽の節句です。 1月1日は元旦、3月3日は雛の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の 七夕の節句と並ぶ5節句のひとつでもあります。しかし、他の節句が今でも民間に 根付いているのに比べ、重陽の節句は今ひとつ馴染みが薄いようです。 重陽というのは「陽を重ねる」、つまり陽の数字である9が二つ重なった非常に めでたい日ということになります。時代劇などで「重畳、重畳」などどいいますが これも似た使い方です。 我が家では日本古来の風習を大事にしていたので、雛の節句には白酒とお雛さまを飾り、端午の節句には菖蒲湯に入って粽を食べ、七夕には笹を飾っていました。勿論、節分には豆まきをし目刺を食べて柊を飾り、十五夜には秋の七草と団子、十三夜もおこなっています。では重陽の節句は?これは子供にはあまり関係がなかったのでしかとは覚えていません。どうやらお酒に菊の花を浮かべて飲んでいたようです。料理に菊が使われたことは覚えているのですが…。 そこで、これを機会に「重陽の節句」特集を組んでみました。まずは重陽の節句の知識から。(以下はこよみのページさんがお書きになったものを引用させていただきました。ありがとうございました) |
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重陽の節供の時期 重陽の節供は他の重日思想に基づく節供と同様に「日付」に固定された祭日です。それで現在では初秋の頃が重陽の節供となるのですが、元来は旧暦の日付で祝われたわけですので元は晩秋の頃の行事でした。 単に晩秋の行事と言ってもぴんとこないかもしれませんが秋の深まった頃に行われる月見、中秋の名月が旧暦8月15日の行事ですから重陽はそれより20日以上も後に行われた行事なのです。月見に関しては中秋の名月の1月後に後の月見(旧暦9月13日)があります。現在では10月末から11月の日付に当たるこの後の月見の4日前が実は本来の重陽の節供だったのです。 現在では9月9日を「菊の節供」といっても、まだ菊の花は小さなつぼみの状態でぴんとこないネーミングになってしまいますが、本来であれば、菊の見頃だったのですね。 重陽の節供の意味と中国の行事 中国ではこの日、家族や友人などと連れだって近隣の小高い丘に登るということが行われていました。中国には古くから山に登って天と地の神を祀るという思想がありました(始皇帝や漢の武帝が行ったといわれる封禅の祭祀と通じるものがあります(片や一家の繁栄、片や全中国の繁栄とスケールは違うけど) また、この丘に登る際には髪に「茱萸(しゅうゆ)」(和名:かわはじかみ)の実を刺したそうです。節供の際に芳香のある植物を身につけ邪気を払うという風習がありますからこの茱萸もきっと香りの高い植物なのでしょうが、まだ調べ切れておりません。わかりましたら、後日写真など掲載したいと思います。 日本の重陽の節供の行事 他の節供がそうであるように重陽の節供も中国伝来の祭日。平安時代の初期に伝来し、始めは宮中行事として貴族の間だけで行われたもの。当時は中国から伝来したばかりの珍しい花だった菊を眺めながら「観菊の宴」を開き詩歌など読み、長寿を祈ったとか。時代が下がるに従って、当初は貴族社会のみの行事だったものが 「貴族 → 武士 → 庶民」へと徐々に広がっていきました。今では影の薄いこの節供ですが、江戸時代までは五節供の最後を締めくくる節供として最も盛んな節供だったとも言われます。なお、この日の宴会には菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わしたとか。 また、菊合わせという今風に言えば「菊コンクール」に相当する会も盛んに開かれました。現在でも日付とは切り離されましたが習俗としては残っていますね。 中国には無い日本独特の風習としては、重陽の節供の前日から菊の花に綿を巻き(着綿)、菊の香りと菊の花に着く露をその綿に移して、この菊の露入りの綿で身を清めるというものがあります。何とも風流(やったことは無いけど)。庶民はこの日栗御飯などを炊いて祝ったとか。私としては風流より、こちらの栗御飯をとりたい。 重陽の節供と暮らし 昔の人(旧暦を使っていた頃)にとっては重陽の節供は、衣替えの日でもありました。この日以後、衣類に綿などを入れて冬衣に変わったそうです。新暦に改暦されてからは9月9日に衣替えではちょっと。汗疹(あせも)だらけになりそうですよね。 各地に残る重陽の節供の痕跡 重陽の節供は時期的には全ての作物の収穫が終わった時期の祭りでしたから、この日を「刈り上げ節供」などと呼び、収穫祭りの様相を呈しており、この祭りが土着した行事があります。有名なところは九州地方。 九州地方では祭りのことを「くんち」と呼ぶことがありますが、これは「九日」のことであると言われます。有名な「長崎くんち」「唐津くんち」も元は旧暦の9月9日に行われたものです。 昔は盛んだった重陽の節供がどうして廃れてしまったのかと思うのですが、おそらく五節供の中で最も公的性格の強い行事でしたが、「公的性格」が強すぎて、民衆に浸透しなかったのではないでしょうか。また重陽の節供の収穫の節供・衣替えといった生活に密着した側面があまりにも新暦の9月9日とそぐわなかったため、この部分が「季節」に合わせて移動してしまった後は、重陽という言葉以外残らなかったのでしょうか? 定かではありませんが、明治以後急激に廃れたことは確かです。 |
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(原著:こよみのページさん) | |||
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